LOSTから旅の切望について
スタートレックシリーズ。
スターウォーズの新シリーズ。
メガホンをとるJJエイブラム。
全世界の期待値が高すぎる作品なだけに
あとをひきつぐ彼は並大抵の苦労ではないだろう、と思う。
JJの作風がどんなだろうと気になってアマゾンのLOSTを見始めた。
最初は引き込まれた。
しかし、これは僕の見るべきものではなかった。
終わりがない。謎は謎をよぶ。それは不毛地帯だった。
謎の目的は視聴者の興味を引き寄せ続けるため、ただそれだけのために作られているようだった。
虫を集めるライトのようなもので。それを照らし続ければ一定の虫がずっと確保できる。
そういう装置のようなドラマだった。
いまの僕には山登りのような、山頂があり、苦難もあるがゴールがある、
そんな物語が必要だと強く意識したのはこうしたLOSTの装置性に気がついたおかげ、とも言えるだろう。
だから、最近にしては珍しくリアルなハードカバーである「騎士団長殺し」を
読み始めた。
終わりが書籍の残りページで分かる、というのはkindleにはないリアル書籍の特権
でもある。
騎士団長殺しを読みながら、ふと僕はそろそろ旅にでなくてはいけないのかもしれない、と思う。
人は旅をしなくちゃいけないタイミングがあるもの、なのだ。
そういう旅渇望感覚に落ち込むことってありませんか?
これは別に村上春樹の小説を読んだからそういっているんじゃない。
だって、村上春樹の小説の主人公ときたら、ちょっと離婚したり、女性にふられたりしただけで、もう数ヶ月単位の放浪生活をはじめてしまう。
そんなことできないよ、誰も。
そうできたらいいかもな、くらいはちょっと思うかもしれないけど、
3分後には、生活の糧をどうしようかとか
マンションの家賃とか
上司がどう言ってくるだろう
とかいろんなしがらみでそういう情念をおさえつけて生きる。普通は。
僕の知っている中で
実際にポッとおもいたって旅にでてしまったの男性は
高校の同級生N君くらいだ。
なんの話だったか。
そうそう。村上春樹の小説にでてくる男の子たちは
(そう、男の子。彼の作品にでてくる主人公たちが自分より年下になっていること、それ以上に精神的に、あるいは作品の構造的に、成人していても心を殺しきれてない主人公がいつもでてくる。グレート・ギャツビーと一緒だ。この対逆として心を殺しきることに長けているのは、サム・スペードやらデューク東郷あたりだろう)
ありえないほど、繊細だ、ということ。
実際の我々は、心の繊細さと、心を殺すことのあいだをふらふらしている。
だから小説に惹かれるのだろうし
心を殺したルチーンの人生パターンから抜け出るために
自分が歯車ではないことを確認するために
旅を切望するのではないか、と思う。